1968年、革命前夜のパリ。アメリカ人留学生のマシューは、入り浸っているシネマティークでイザベルとテオという双子の姉弟と出会い意気投合。
彼らのアパルトマンに滞在し、映画のマニアっぷりを競うゲームに興じるようになる。
両親不在の家で姉弟の性に奔放な様子を見せられたマシューは抵抗を感じるが、やがて互いに挑発しあう二人に挟まれる中でその関係に溺れてゆく。
世間とは隔絶された空間の中で、腐敗と堕落に満ちた生活を送る三人。
だが時代は大きく動き出しており、また三人の距離にも微妙な変化が生まれてきていた…。
劇中で三人が映画の一場面を再現して「これは何の映画?」とクイズに興じるシーンが度々出てきますが、元ネタがさっぱりわからないのが残念です。
また物語の背景には「五月革命」があるのですが、これに対する知識も無し。
ということはおそらくこの映画の愉しみは半減、もしくはそれ以下になってしまっていたかもしれません。
が、まあイザベルを演じたエヴァ・グリーンのダイナミックなヌードがたっぷりと楽しめればOKという部分もありますし(ついでにマシュー役のマイケル・ピットとテオ役のルイ・ガレルの股間にも再三モザイクがかけられますが、三人とも撮影時は二十歳そこそこだったはずで、よくやったものだと思いますが)、あまり深くは考えてはいけないのかも。
一卵性双子と称するイザベルとテオは一心同体。
そこにマシューが入り込み、イザベルと結ばれることで危うい三角関係が醸成されますが、かといってテオはマシューを排除しようとする訳でもありません。
またこれまでテオが全てだったイザベルにとって初めての他者であるマシューに大きく惹かれるものの、やはりテオの存在は別格。
マシューはそんな二人の関係が成長への障壁となっていることを説くのですが、所詮はそこまで。
マシューもまた、現実から目を背けて生きているからです。
頭でっかちで偉そうなことをぶってはいても、所詮は子供の彼ら。
最後は現実の波に飲み込まれ彼らは決別するのだが、作り手(=語り手)が過去を正当化あるいは美化してノスタルジイに浸るタイプの結末はどうも落ち着かないですね。
マシューを最後まで狂言回しとして使うのならば、例えばその眼前でイザベルとテオが警官隊に襲われ倒れる、くらいの描写をし、その決別が永遠のものだと匂わせるくらいでも良かったのではないかと思うのですが、如何でしょうか。