『GODZILLA 1985/新・ゴジラ 海外版』(1985)
2010年 03月 19日
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これは例の『ゴジラ』('84)をアメリカへ売った奴である。
またまたレイモンド・バーなんぞを呼んできて撮り足しているが、まあ前回ほど改悪とは言えんな。
しかし土台が無理な話である。
だいたいが既に出来上がっているドラマに、もう一人主人公を加えようと言うのだから。
売ることが決まっているのなら、最初からレイモンド・バーを出して、夏木陽介あたりと会話するシーンでも作っておけばいいのに。
それで後で撮り足しをするなら、まだ違和感が少ないだろうに。
それにしてもオリジナルをバサバサ切ってるので、テンポのいいこと。
これじゃドラマになってないぞ。
牧と尚子の葛藤なんてカケラもないのね。
だるい人間ドラマがないだけ良いのかもしれないが、これでは奥村兄妹と牧は何の為の存在かわかりゃしない。
またゴジラの上陸コースだが、カットを繋ぐ順番を勝手に変えちまったので、東京湾から上陸したゴジラはいきなり新宿に出現し、その後で瞬間的に有楽町へ戻り、再び新宿へ侵入することになっちまう。
わかりっこないと思ってるんだろうが。
一番凄いのはソ連の貨物船の扱い。
オリジナル版では、「もう不必要だ」と搭載されている核ミサイルのコントロール装置を解除しようとしているところへゴジラが現れ、誤って発射スイッチが入ってしまったのを知った政治工作員が一命を賭してオフにしようとするものの力尽きるのだが、この改作版では工作員はコントロールをセットしようと船に乗り込み、「スイッチだけは自分の手で」と必死にスイッチを押して息絶える、という風になっているのだ。
悪役ソ連!流石アメリカ映画!
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原版は1954年版『ゴジラ』の続編というポジションでありながら、「30年前にゴジラが現れた世界」と設定されていることを除けば特別に繋がりはない。
また前作のように無理矢理スティーブを物語にねじ込むのではなく、あくまで”傍観者”と位置付けているので、ニセ芹沢やニセ恵美子が出てくるような不自然さもない。
それに全篇が英語吹替なので、カタコトの日本語が飛び交ったり、英語と日本語チャンポンの掛け合いも存在しない。
エンドクレジットで流れるのがお涙ちょうだい系の主題歌ではなく、自衛隊のテーマやスーパーXのテーマを勝手に編集で繋いだ勇ましい曲が鳴り響くあたりが如何にもアメリカ映画っぽい雰囲気を醸し出していることも、作品に違った魅力を与えているようで嫌いじゃないし。
その反面、アメリカ側の新撮シーンはペンタゴン内部に限定され、モニターで日本の様子を見ながらあーでもない、こーでもないと言ってるだけなので(つまりスティーブだけじゃなく、全員が”傍観者”なのだ)、物語にはちっとも溶け込んでいないという欠点がある。
まあ唯一オリジナルの部分と新撮部分との一体感が感じられるのが、発射されたソ連の核爆弾の撃墜をアメリカに依頼する件。
そして人間ドラマの見事な割愛ぶり。
クライマックスで感極まる三田村首相は原版でも何だかよくわからない人物なのだが、林田教授も原版以上に胡散臭い。
牧は新聞記者としての立場に苦悩するはずなのに、この作品では自分の行動に全くの疑いも抱いていないようだし、そもそも奥村兄妹とは普通に友人同士として接していて、険悪なムードが漂ったりもしないわけだから苦悩するわけもないのだ。
こういったドライな人間関係は、この作品が特撮マニアや怪獣ヲタクが真剣に観るものではなく、ごくごく普通の若者が仲間内でワイワイ騒ぎながらなんとなーく流しているものだ、という割り切りから来ているのかも。
やっぱりこれも前作同様、「珍品」ということで崇め奉り、あわよくば眠りに就かせておくのが無難なんだろうなあ。
てか、こんなんまであったんですか。しかもまたアイアンサイド!? 参った。
しかし、オリジナルでも武田哲也だの、兵ちゃんだの、ほんまにとってつけたとしか言いようのない登場シーンの連続に劇場でスクリーンに野次りたい気持ちでイッパイでしたよ。
特撮もひどかった。アイレベルがやたら高くてミニチュアまんまの街(たしか直後に“ぱふ”かどっかでとりみきさんあたりがボヤいてた記憶が)とか。
オリジナルごと海底深く眠らせましょう。
あと、今回は確か「スティーブ・マーティン」とフルネームで呼ばれるシーンはなかったかと。
なんでもコメディアン兼俳優のスティーブ・マーティンが有名になっちゃったから、とかいう噂ですが。