『ハリー・ポッターと死の秘宝』 J・K・ローリング
2011年 07月 19日
ふう、こういう風に幕を閉じたんですね。
ネタバレサイト等で結末まで知ってはいましたが、実際に読んでみると感慨も一入。
何度も書いてきましたが、伏線の張り方、それにキャラクターの配置はよく考えられていますね。
第1巻を書く際に、最終巻までの構想がきちんと出来上がっていたということでしょう。
途中で寄り道したり、改変したり、キャラクターたちが勝手に動きだしたり、ということはなかったのでしょうか。
ドラコが情けなさすぎるとか、肖像画として大活躍(?)するなら、死んだことになんないじゃん、ダンブルドア先生?とか、結局<グリフィンドールの剣>って何の役に立ったの?とか、こんな人まで殺しちゃうの?(例・コリン)とか、色々と言いたいことはありますけれど、最初から最後までぶれずに終わったのは素晴らしいですね。一気読みすると、一層そのあたりを強く感じます。訳語には違和感覚えたりもしますが。
最終章は19年後。
ここではハリーはジニーと結婚し、ロンはハーマイオニーと結婚、それぞれ子どもが何人か出来、その子どもたちがホグワーツに通う年頃になったことが明らかになりますが、ハリーたちが何をしているかは明らかにされていません。
せいぜい、ネビルがホグワーツで薬草学の教授になっていることが明記されているぐらい。
余計なことではありますけれど、彼らがどうしたかはちょっと気になりますね。
一応作者がコメントしたところによれば、ハリーは魔法省の闇祓い局の局長に就任しているのだとか。
ロンはジョージと一緒に悪戯道具専門店を経営し、ハーマイオニーは魔法省で屋敷しもべ妖精の地位向上に尽力したり、純潔支持法の撲滅を推進したりしたのだそう。
ジニーはクィデッチのプロチームで活躍した後に、「日刊予言者新聞」のクィデッチ担当記者になったのだとか、それはそれで面白そうな設定が用意されているみたいです。
作者自身は続編執筆の意思はないとしていますが(最近はちょっとトーンダウンしてきてますけれど)、スッキリこのまま完結させて欲しい反面、ハリーのその後、あるいは父親たちの代のちょっとしたエピソードなどを外伝という形ででも書き継いで欲しいという気持ちもあります。
例えば、結構嫌な性格だったハリーの父ジェームズと、そのジェームズを毛嫌いしていたはずのリリーが何故に結ばれたのか等々、まだまだ作品世界は広げられるはずなので。
まあ商売優先の、安易な続編はお断りですが。

予定調和的なラストだと思いましたが、ヘタに謎だらけで終わられるよりはよほどいいです。
訳語については、私も不満がないわけじゃありませんけど、『死の秘宝』でスネイプがハリーに向かって呟く「僕を見てくれ」は唯一名訳だと思いましたですよ。
「我輩」じゃないんですね、あそこだけ。
映画の方も見終わりました。達成感というか、感慨も一入。
伏線はとりあえず回収したみたいだし、とりあえずメデタシメデタシ。
スネイプの一人称「僕」は、逆に自分はちょっと違和感ありましたね。
映画の吹替だと「私」になっていて、どっちかというとそっちの方がしっくりくるかな。
字幕版がどうなってるのかは知りませんが、今は字幕・吹替どっちも岸田恵子さんの担当だから同じかも知れません。
岸田さんは1作目からずーっと吹替版を担当していて、5作目からは字幕版も担当してるから(それ以前は例の”字幕女王”でした)、自分なりの世界観があるんでしょう。
もっとも普段は「吾輩」だし、ヴォルデモードは「俺様」といつもは翻訳準拠なのに、ここだけ違うのは何か意味があったのかな。
松岡さんも翻訳監修として参加しているし、うーん、さて?
吹き替えは「私」でしたか。
うーん・・・あの瞬間、ハリーの緑の瞳の中に、リリーの面影を求めたスネイプの気持ちを思うと、「10代のスネイプ=僕」でベターだったと思うのですけど・・・
あまりにも、現在のキャラとかけ離れているイメージだったのかしらん?
それはともかく、映画では最後に「リリーの目にそっくりだ・・・」とか呟いてお亡くなりになります。
まあこれを饒舌ととるか、映画ならではのわかりやすさを求めた改変ととるかでも随分と違ってきますね。
ちなみに映画のラストで、ハリーは何とニワトコの杖を折って、捨ててしまいます。
これにはビックリ!?