『愛のめぐりあい』(1995)
2017年 02月 09日
主人公というか、狂言回しはジョン・マルコヴィッチ扮する「映画監督(私)」で、彼が映画の題材を求めて旅をする、という構成。
「ありえない恋の物語」は、旅先で魅力的な女性と知り合い恋に落ちる青年の物語。互いに惹かれながらも何も起きず、数年後二人は偶然に再会するのだが…。
結局青年は彼女を抱くこともせず再び別れるのだが、正直いってこの心情がわからない。
何か純粋な想いがあるのかもしれないが、女性からすると単に弄ばれたように感じるのではないだろうか。
美しい女教師にイネス・サストル、青年にはキム・ロッシ=スチュアート。
絵にかいたような美男美女っぷりで、イネス・サストルのヌードは特に美しい。
「女と犯罪」は、映画監督の実際の体験談ということになるのだろうか。
自分の父親を殺したという女性と出会い一夜を共にするというお話で、この女性役がソフィー・マルソー。
映画全体のキービジュアルにソフィー・マルソーが起用されていることからもわかるように、この映画そのものの最大の見どころが彼女のオールヌードといっても過言ではないだろう。
ただそれが、ジョン・マルコヴィッチとの大胆な絡みのシーンというのがどうにも…。
女性は自らの罪を告白し、男はそれを聞くが彼女から去る(逃げる)という結末で、最後にくどくどとその言い訳を独白するが、「映画監督」としてその姿勢は如何なものか。
3つめのエピソード「私を探さないで」は、妻ファニー・アルダンがありながら、若い女性キアラ・カゼッリとも関係を持つピーター・ウェラーの話と、忙しさにかまけて過程をないがしろにしてきた男ジャン・レノが妻に逃げられる話の二本立て。別々のお話のように見えて、最後には夫の元を去ったファニー・アルダンが、賃貸アパートの広告を見てジャン・レノの家にやってくるという形で繋がる。
毎回毎回反省の言葉を口にしつつも好き勝手やってるうちに、妻に三下り半を突きつけられる男の方はまだわかるが、仕事人間で愛想を尽かされる男はちょっと気の毒。夫婦のあり方の多様性を描いているのかと思いきやそうでもなさそうだし。
その中ではレイプまがいのピーター・ウェラーとキアラ・カゼッリのSEXシーンにインパクトあり。
その後で画家のマルチェロ・マストロヤンニと、その友人ジャンヌ・モローの断章的な短いエピソードを挟み、最終エピソード「死んだ瞬間」へ。
謎めいた女性イレーヌ・ジャコブに一目惚れしたヴァンサン・ペレーズが必死に彼女を口説こうとするが、彼女は明日修道院へ入ると告げる、というお話。単に若いアンちゃんがナンパに失敗したってだけではあるのだが、舞台装置として教会を用意し、神を持ち出してくるとそれが高尚なもののように映る。
メインキャストの中でイレーヌ・ジャコブだけ脱いでいないのが残念。
映像は美しいし、出てくる美人女優の裸は沢山拝めるし、雰囲気も良いのでそれなりに愉しめるのだが、今回が何度めかの観賞なのだがお話としては理解できない。
第2話を除けば、「私」が耳にした話を再構築しているというフィクションの体裁なのだろうが、あまりに現実離れしてる、いや良く言えば幻想的すぎる第2話すらも「私」の妄想と受け取ることも出来るというあやふやさ、不確かさが微妙な居心地の悪さを醸し出しているのだろうか。
お目当てのシーンだけ早送りして見る、という鑑賞方法もありなのかもしれない。