『ゴジラ対ヘドラ』
2017年 03月 05日
ですが、前にも書きましたけど、この映画はどこが面白いのかわからない~。
サイケデリックな映像は斬新かもしれませんけど、ぶっちゃけお話が面白くないんですな。
主人公は冴えないオジサンで、途中からは寝たきり…ではないですが、活動に制限がかかっちゃうし、一見主人公っぽい柴俊夫は無軌道な若者の象徴?
本筋には絡まないままだし、最後はあれ、死んじゃったの?
そのガールフレンドだかはこの映画の主題歌を歌ってる歌手ですが、これも紅一点の割に魅力薄。
理科の実験レベルにしか見えない研究と、その割にやたら理屈っぽい説明台詞(さっぱりチンプンカンプン)、人の息遣いの感じられない都市部でのゴジラとヘドラの戦い。ギャグにしか見えない自衛隊のやりとり…と挙げだすとキリがないですなあ。
出演者に東宝特撮のお馴染みさんが全然いないのも盛り上がらない要因です。
真鍋理一郎の音楽も、なんだか気の抜けた、しまらないファニーなものですし。
僕らの世代だとこの作品が劇場での「ゴジラ」初体験という人が少なくないと思うんですが、当時のみんなは愉しめたのかなあ。
同時上映だった、グドンとツインテールが出てくる前後編を一本にまとめた劇場版『帰ってきたウルトラマン』の方が、遥かに怪獣映画らしくて面白いと思うんですが。
<過去記事>
http://odin2099.exblog.jp/9446028/
「ゴジラ対ヘドラ」は昭和ゴジラシリーズの中でも、その描写の陰湿さ、グロテスクさは類を見ませんね(というか、見返してみると昭和ゴジラシリーズのどれもが独特の個性を持っていて、イメージが統一されていない気がしてきました)。
本作の上映当時は環境汚染がピークだったようで、大きな問題になっていたようですね。高度成長期、日本の産業革命時代の頃は空を真っ黒にする煙突の煙が繁栄の証として称賛されていたようですが、後々それが害悪になっていく事は想像がつかなかったのでしょうか。
核の落とし子であるゴジラは、同じように人間の作り出した「毒」から生み出されたヘドラに自分と同じ影を見て悲しいものを感じたかもしれません。でも、地球に生きる者として地球を汚染し破滅に導く者とは戦わなければならない。
この頃のゴジラは人間に距離は近付いてきていても、決して人間の為に戦っていた訳では無いのですよね(でも、次作では少なくとも日本には好意的になってくれるみたいです)。
今にして思えば、この重苦しい雰囲気を吹き飛ばす為に例の悪評高き「ゴジラの飛行」が必要だったのかもしれません。大きな問題に悲観的にならず、前向きに(後ろ向きだけど)進んで行こう。そういうメッセージが込められているのかもしれません。その結果、ゴジラは強敵ヘドラに辛くも勝利しました。
田子の浦や四日市の汚染が凄かったようですが、大阪でも淀川の汚染が酷くて一時は魚が住めなかった時期もありました。今では環境の改善が進んでフナやタナゴが戻ってきて、空もいくらか澄んできたように思えますが、今はダイオキシンの影響による異常気象という別の環境問題が出てきているのですよね。
昔に比べれば汚れが見えなくなっただけで、根っこの所は何も変わっていないのかと思うと考えてしまいます。このダイオキシンこそが、映画の最後に出てきた「もう1匹のヘドラ」なのでしょうか。でも、私は悲観的にならず人間の英知を信じて前向きに生きていきたいです。
フィクションとして受け取るにはあまりに直接的すぎるような気もします。
物語もカタルシスがなく、ゴジラが勝ったから良かったではなく、
例えゴジラがヘドラを倒しても、人類にとっての脅威は去らない、という終わり方ですから。
作り方によっては正攻法の侵略モノにもなったかと思いますが、
変に若者たちの風俗習慣を取り入れたりで、全体像がぼやけてしまっているのも評価が分かれる所以かもしれません。