『シックス・センス』(1999)
2021年 07月 25日
少年は、自分を救えるのはこの医者しかいないと思い、医者は、この少年を救うことで罪を償えると考える。
ご存じシャマランの出世作。
もう20年以上前の作品なので特にネタバレには配慮していない。

ただ少なくてもこの作品に関してはそのストーリーテリングぶりに唸らされたし、ブルース・ウィリスの抑えの効いた芝居、それにハーレイ・ジョエル・オスメントの健気さに打たれた。
続編小説が三部作で出ているが、これらも秀作である。
もっとも最初に映画を見た時は、訳が分からずポカンとしてしまったのだが。
今回は結末まで知った上で、改めて矛盾点などないかを考えながらの再鑑賞。
冒頭でマルコムはヴィンセントに撃たれ、その後の経緯が描かれることなく翌年まで時間が飛ぶのだが、当然この時に既にマルコムは死んだものの当人は気付いていない、ということで物語は進んでいる。
そこで気になるのは、マルコムは今に至るまで日常生活をどう体感していたのかということだ。
妻のアンナだけでなく誰とも会話はなく、どのように仕事をこなし、食事や睡眠を取っていたのだろう。
それとも”こなしていた”つもりになっていただけで、そもそもそういう感覚は持ち合わせていなかったのだろうか。
また霊的存在は肉体を持っていないため、現世のものに物理的な接触は出来ないというのが一般的なイメージではないかと思うのだが(『ゴースト/ニューヨークの幻』にもそういった描写がある)、マルコムは普通に本を調べ、ノートにメモを取り、機械を操作し、バスに乗り、ドアを開けようとする。
そのあたりはどういう解釈なのか。
これらは見る側の勝手な解釈、思い込みといえばその通りなのかもしれないが、ある意味でルール違反を犯している(普遍的なイメージを逆手に取っているだけという言い訳も立つ)が故に、観客はまさかと思いつつもマルコムが既に死人で、”視える”体質のコール少年とは出会うべくして出会ったのだということに思い至らず、最後の最後までミスリードの罠に嵌ってしまうのだろう。
またコール少年の前に現れる霊たちは、何れも傷を負うなど死んだ時の状態を保った姿で現れるが、マルコムだけは生前の姿のまま(実際は腹部を撃ち抜かれ、おそらくは出血多量で死んでいる)なのもズルだ。
これがもし、マルコムが(怪我をしたであろう)腹部を庇うような動作をするようなシーンでもあれば、ひょっとすると謎解きの手掛かりになったのかもしれないが。
ということで結論。
シャマラン監督、巧いけどズルい。