『天使のたまご』(1985)
2021年 08月 17日
それを批判する者の存在を知っている。
それを絶賛する者の存在も知っている。
感覚的すぎる。
わざとわかりにくく作っている。
自分に寄りかかり過ぎている。
――等々、何とでも言える。
しかしアニメーションでもこういうものが、
或いはアニメーションだからこそこういうものが、
表現し得るということを知らしめただけでも十分ではないだろうか。
実験映画的だから商品になり得ないという議論は成立しないだろう。
その作品が金払うに値するかどうかを判断するのは観客だからだ。
わかり易ければいい、わかりにくければいい――それはどちらがいいかは判断出来ない。
作品の質に左右されるからである。
おそらくこの作品はどちらでもないだろう。
しかしそれは作品の価値を下げることにもなるまい。
全ての作品に均一なものを求めるのは危険だし、それは無意味である。
何故ならば、そうであるならば新しい作品は何一つ不必要だからだ。
しかし必要とする人がある限り、それは均一である必要はない。
いや、あってはならない。
『天使のたまご』はこういうレベルで論じられる作品ではないはずだ。
しかこういう論議が多過ぎる気がする。
ただこの作品が不親切なのは、作品を解く鍵がわかりにくいことだろう。
例えばたまごを少女自身、或いは少女の処女性と考えると、ボーイ・ミーツ・ガール、ラブストーリーとなる。
少年がたまごを壊すのは即ち肉体関係の暗示。
少女が身投げするのは世界観の相違、もしくは再生と誕生、リ・インカネーション。
アダムとイブ、そして二人の楽園追放の裏返し、繰り返しともとれよう。
それで(解釈自由で)いいのかもしれない。
最後にアニメマニア的な意見を少々。
とにかくあの天野喜孝の絵が動いているというだけで感動だ。
あと、見た奴みんながだれると言っていたけれど、そんなでもなくて安心した。
――我ながら何を言いたいのかよくわからない文章だが、これが三十年以上前の初見の際の感想メモを、ほぼそのまま引用したもの。
かなり背伸びして書いているのがわかる。
ただ作品に散りばめられたヒントを手掛かりに考えてみると、やはりボーイ・ミーツ・ガール物と見るのが一番しっくりくるようだ。
初対面から少女は少年を気にしている。
最初は警戒心が強いが、やがて好奇心が勝っていく。
少年を拒絶する言葉を発してはいるものの、心は裏腹。
少女は少年との距離をどんどんと縮めていく。
一方の少年は無垢な少女(夢見る少女)に、自分が見聞きしてきた現実(外の世界)を教えようとしたのか、あるいは少女を世界から救おうと思ったのか解放しようとしたのか。
それとも己のものにしようと欲したのかは定かでないが、半ば強引に彼女に関係を迫る。
結果、一番大切なものを踏みにじられた少女は絶望し、またその欲望の果てに得たものに満足出来なかった少年は、少女を捨て再び旅立つ。
そして少女は衝動的な行動を取るが、その過程で少女から大人の女性へと徐々に変貌を遂げてゆく――
そんなお話だろうか。
特集上映「自選シリーズ 現代日本の映画監督5 押井守」の1プログラム。 押井守が天才としか思えなかった時代のギリ長編と中編各一本。 ◆『天使のたまご(71分)』 五つ星評価で【★★★★圧倒的なイメージ】 のっけからイメージの奔流に負ける。 素晴らしいのは映像より音効と音響だ。 得体のしれない映像のイメージも凄いが、作画の力がまちまちであり、 映画その物の禍々しさを最高に引き出しているのは音...... more
もう、話を覚えてたりはしない。
そういう映画ではないから。