『魔法使いハウルと火の悪魔』<ハウルの動く城>1 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ
2004年 12月 12日
まず魔法で老婆に姿を変えられたソフィー。
長女だから何をやってもダメだと諦めていた彼女だったが、立場が変わればモノの見方も変わってくる、自分で作ってしまった殻を自ら破ることで大きく成長していき、秘められた自分の力(魔法が使える!)にも目覚めていくというキャラクターなわけだが、映画版では外見のみ変わっても内面の変化は殆どなし。
老婆に変わったままの原作とは違い、映画では少女と老婆を行ったり来たりしているので尚更だ。
多少引っ込み思案なところはあるものの、最初から芯の強さを持った典型的な宮崎ヒロインに堕しているので、その「変身」が全く活きてこない。原作では妹が二人おり(末妹は後妻の子だが仲は良い)、この二人との対比でキャラが成り立っている面が多分にあるが、映画では一人だけ、それもその他大勢扱いなのでソフィーに与える影響も皆無に近い。

原作ではハウルもソフィーも最終的な目的は荒地の魔女との対決で、共通の目的があるからこそ二人は接近していくのだが、映画ではその部分が欠落しているのでただ何となく一緒にいるだけなので不自然だ。
そしてハウル。自惚れ屋でお調子者、我侭でいい加減、見栄っ張りで女好き、このまんまキムタクにやらせりゃ良かったんだろうが、映画では何やら内なる使命を秘め、表面上はC調を装っているだけの2枚目キャラという、非常につまらない存在になっている。
つまり、極端なことを言えば原作の良さを全て殺ぎ落としたのが映画版ということになる。映画の出来には満足している、というおざなりな原作者のコメントが紹介されていたが、本心だろうか?
ちなみに映画と原作との相違点は数知れないが、キャラクターに関していくつか挙げると、王室付魔法使いのサリマンは原作では男性で、しかもハウルとは面識がない。後にソフィーの妹と結婚する。ハウルの先生はペンテスモン夫人で、彼女は途中で魔女の毒牙にかかって生命を落す。映画では唐突に描かれる案山子の正体だが、原作ではもっと複雑で、しかもそれにはソフィーの妹たちが密接に絡んでくる。ハウルの弟子マイクルは、原作では15歳の少年で名前はマイケル、といった具合。原作にはない戦時下などという設定を施すより、もっと原作の面白さを引き出すような映画作りは出来なかったものだろうか。