『さよなら銀河鉄道999/アンドロメダ終着駅』(1981)
2006年 07月 27日
世紀の傑作『銀河鉄道999』の、これは「蛇足」としか言いようがない続編である。× × × ×
「物語とは本来、永遠に続かねばならぬ」とは作家・栗本薫の名言であるが、いかに続編好きの筆者であっても、この作品は認めることが出来ぬ。
何故ならば、テーマ的にもストーリー的にも前作で完結しているからである。前作のラストにおいて、自らの目標を見つけ、少年の日に別れを告げ、自立していった星野鉄郎。そして、その鉄郎が切り捨てていったものの象徴としてのメーテルの存在。
であるならば、大人への道を歩み始めた鉄郎は、メーテルに再会してはならないのである。成長した鉄郎の物語には興味があるが、少なくともメーテル抜き999号抜きで語られなければならないはず。
またメーテルも、鉄郎にとっての自分の役目は終わったとして、今度は別の少年を導く役目を負わなければならない。原作でもTV版でもそれを匂わせているし、何よりも前作のラストが正にそれであったにも拘らず、なのである。ストーリー面でも言わずもがな。終着駅(機械化母星メーテル)の先に駅があったのでは、作劇上の大きな破綻と呼ばずして何と呼ぼう。
今回のキーマンである鉄郎の父・黒騎士ファウストも、デザイン、設定共に明らかに先年公開された『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』におけるダース・ヴェーダーの影響が大であるし、途中から追加されたキャラクターであることも想像に難くない(少なくとも初期のプロットでは存在していない)。
はたしてやる気があったのかと疑う原作者の姿勢の下には、やはりちぐはぐしたスタッフの存在がどうしても見えてしまう。松本キャラを見事に自分のものにした作画、芸術品と呼べる美術設定、暴走しまくっている演出、何処かで聞いたようなメロディでものの見事に作品の雰囲気を一変させてしまった音楽、等々。
経験も、そして技術的にも向上していながら、何かフルマラソンを終えた直後に、もう一度42.195キロを走らされるマラソンランナーのような雰囲気がしてならない。そして、長く続いた松本零士ブームも、この時終焉を告げたのである。
いや、結構厳しいこと書いてますなぁ(苦笑)。
「しねま宝島」からの転載なんですが、これは公開当時に書いた文章、ほとんどそのまんまです(爆)。
でもあれから25年も経ったからでしょうかね。今回観直した際には、もうちょっと寛容な気持ちになれました。再会と別れを繰り返す鉄郎とメーテルの関係にはもはや緊張感は感じないとか、プロメシュームとメーテルの真意がさっぱりわからないとか、他作品とのリンク上の矛盾点は増える一方だとか、言いたいことはまだまだ沢山あるのですが、許せはしないものの、突き詰めようという気持ちは失せてきました。
ということは、作品に対する愛情も薄れてきたということなのかもしれないですけれど・・・?