カテゴリ: 映画感想<マ行>( 201 )
リュミエール兄弟のシネマトグラフに刺激を受けたメリエスは、自らも映画製作に乗り出し、奇術師出身ならではの多彩なアイディアを盛り込んで人気作を生み出してゆく。
メリエスこそ正しく「特撮映画の父」「SF映画の始祖」と呼ぶに相応しい存在だろう。
やがて彼に影響を受けた同業者が次々と現れ、メリエスは濫作を余儀なくされて質の低下を招き、やがて観客からも飽きられてしまい失意のうちに業界を去るのだ。

また黎明期から映画はカラー表現に挑んでいた。
当時は勿論白黒のフィルムだったが、これに一コマ一コマ、職人の手によって丁寧に着色することでカラー映画を実現していたのだが、その中にはメリエスの代表作「月世界旅行」のカラー版も存在していた。
後半はこの発見されたボロボロになったフィルムを、実に十数年の歳月をかけて丹念に修復、復元する作業にスポットを当ててゆく。
これまた20世紀の初頭に早くも”カラー映画”という概念があったことに驚きを感じた。
映画はまず音が付き、それから色が付いたという風に理解していたのだが、疑似とはいえこれはこれで立派な”カラー映画”であることは間違いない。
自身の映画史の認識を改めなければなるまい。
映画館での上映の際は先ずカラー版の「月世界旅行」が上映され、続いてそのバックボーンを解き明かすこのドキュメンタリー映画が上映されたようだが、DVDではこちらが先に収録されていて、修復の過程を見せた後でじっくり本編を見せるという構成になっている。
というわけで久々に「月世界旅行」もカラー版で見直したのだが、画面に不釣り合いな音楽は煩く感じたし、肝心のカラー化も奇麗というより派手で毒々しいという印象を受けた。
時代背景を考えれば歴史的意義はあるだろうが、純粋に一本の作品として楽しむならば白黒版の方が想像の余地が残されており、幻想映画としての完成度は高いように思うのだが如何だろうか。
今回から監督がこだま兼嗣から山本泰一郎に交代。
舞台女優の牧樹里が持つ宝石を狙う怪盗キッドから予告状が届いた。
依頼を受けた毛利小五郎をはじめ江戸川コナンや蘭たちも劇場に向かうが、そこに捜査の協力者として工藤新一が現れる。
コナンはその新一が怪盗キッドだと叫ぶが、証拠もないため誰も信じない。
お芝居が終わりに近づいたとき遂にキッドが動き出し、コナンもまた彼を追い詰めるが既の所で取り逃がしてしまう。
翌日、宝石を守ったお礼ということでコナンたちは函館にある牧の別荘での打ち上げに招待され、スタッフやキャストと共に飛行機に搭乗する。
キッドはわざと盗みに失敗した体を装い、この機会を狙っていたに違いないとコナンは警戒を強めるが、なんとその機内で牧が何者かに毒物によって殺害されてしまう。
更に彼女と接触した機長と副操縦士も体調の異変を訴える。
果たして牧を殺した犯人は誰か、
操縦不能に陥った旅客機の運命は、
そしてキッドの目的は何なのか――?!

そして終盤は旅客機パニック物と化す。
この映画から三本の別々の作品が作れそうだ。
一応三つのプロットは相関関係というか因果関係によって結ばれてはいるものの、直接的には無関係である。
特に中盤の殺人事件の件は怪盗キッドには全く関係がない。
犯人にしても、たまたま函館への旅が丁度タイミング良かったというだけだろう。
だがその結果旅客機がコントロール不能に陥るという大騒動が起こり、乗客の一人に変装していたキッドとコナンが協力してこの危機に対処するという、ファンならば胸熱の展開が待っているのだから繋がりがないとは言えないものの、それらが有機的に結びついているかと言えば答えは「No」だ。
ちなみにキッドの宝石盗みの話は途中でどっかへ行ってしまう。
牧が持っていた宝石は偽物だったことに気づき、諦めたとあっさりキッドの口から語らせてしまうのは如何なものか。
それでも色々と詰め込んだなりの面白さはあり、コロコロと目先が変わるので置いてけ堀になる危険は孕んではいるものの、飽きさせないだけの工夫はなされている。
【ひとこと】
コナンは麻酔銃を間違えて小五郎ではなく蘭の母である妃英理に撃ってしまい、仕方なく英理の口を借りて推理を披露する羽目になるが、他にも今回は変声機の操作ミスが幾つか…。
プロデューサーがギレルモ・デル・トロとアルフォンソ・キュアロンというのが気になるし、音楽はアラン・シルベストリ。
出演はアン・ハサウェイにオクタビア・スペンサー、スタンリー・トゥッチ、クリスティン・チェノウェス、クリス・ロック、ジャジール・ブルーノ、コーディ=レイ・イースティック。
両親を事故で亡くした少年が、祖母に引き取られようやく明るさを取り戻したものの、今度はその前に魔女が出現。
その魔法によってネズミに姿を変えられてサァ大変!
大魔女とお祖母ちゃんにはその昔何やら因縁があったようだけど、だからといって少年が狙われたわけではないみたい。
ネズミにされた少年もやられっぱなしじゃなく、遂には魔女たちに復讐を果たし、後は何とかして魔法を解いてハッピーエンド!
…を迎えるかと思ったら全然違う。

お子様向けの健全なファンタジー映画だろうと思っているとかなーり”毒”があるし、一見すると明るく楽しい映画に見えているけれど”陰”があるし、油断も隙もない。
これがロアルド・ダールたる所以なのかな。
ところで何かと魔法や魔女に詳しいお祖母ちゃん。
途中でやたらと咳き込んだりするのが何かの伏線かと思いきや、その後も最後までピンピンしているし、まだ健在なのだとしたら相当な長寿。
てっきりお祖母ちゃんも実は……?
というオチかと思ったら、そんなこともなかったね。
【ひとこと】
吹替版オンリーの公開になるかなあと思っていたら、実際は字幕版オンリーの公開だったのはちょっと意外。
ターゲットをどの層に絞ったんだろう?

ただ途中でヒーマン一行はスケルター軍団から逃れるために時空間転移装置を使うのだが、その転送された先が地球。
共演はフランク・ランジェラ(顔がわからん)、メグ・フォスター、ビリー・バーティ、コートニー・コックス、ロバート・ダンカン・マクニール、チェルシー・フィールド、ジョン・サイファー、ジェームズ・トルカン、クリスティナ・ピックルズ、アンソニー・デロンギス。
監督はゲイリー・ゴダード、製作総指揮がエドワード・R・プレスマン。
メナハム・ゴーランとヨーラン・グローバスのキャノン・フィルム作品だ。

またロバートにも色仕掛けで迫るが、それを拒否されると今度は子供たちをターゲットに変え、言葉巧みに操ろうとする。
だがジュードの母リディアだけは、ジュードの本心を見抜いていた。
原作はバーナード・テイラーのベストセラー小説とのこと。
それをジェイミー・リー・カーティス、ピーター・ギャラガー、ジョアンヌ・ウォーリー=キルマー、バネッサ・レッドグレーブ、ルーク・エドワーズらを起用して映画化。
映画公開時のコピーは「パパの恋人を殺して、ママのベッドへいらっしゃい。」で、監督はイブ・シモノー。
ジュードは最初は直接ロバートに訴えるが、それが聞き入れられないとなるとキャリーを強制的に排除しようとし、ストーカー紛いの行為を行い、弁護士やキャリーの同僚までも味方に付けようと画策。
そして子供たちの中でも思春期の長男ケスを誘惑して自分の手先と化し、自分の目的にとって邪魔だとわかれば実の母親までも手にかけようとする。
最後は事故に見せかけてキャリーを殺そうとし…とおっかないことこの上ない。
おまけにジュードが家を出て行った原因は一切明らかにされない。
しかも長男ケスが生まれた直後にも一度家出し、戻って来た彼女をロバートは許したのだが、末っ子のベンが生まれた直後に再び家出したため、離婚を決意しているという設定。
これで何故ケスがジュードに靡くのかにはやや疑問が残る。
ベンはジュードの記憶が殆どないので執着心はあまりないようだし、マイケルはややどっち付かず。
ケスだけは当初からジュードに対する反発心を前面に押し出しているのだが、裏を返せばそれだけジュードへの執着が強い証拠。
そこを上手く利用されたということなのだろうが。
以前見た時は母子相姦めいたシチュエーションにかなり衝撃を受けたものだが、見直してみるとそれほどどぎつくも強烈でもなかった。
ただ息子の前で全裸になる母親というのは、別の意味で怖い。
ラストは一応のハッピーエンドなのだが、これでこの一家に平穏が訪れるのかと言えば、かなり微妙だろうなとは思う。
【ひとりごと】
ジェイミー・リー・カーティスは見事なプロポーションを披露しているが、ヌードシーンは僅かで殆ど見えないので、そこに期待している人には物足りないかも。
その島には今以上の名声を求めたハリウッドのアクションスターのジョニー・ケイジや、相棒を殺した犯罪組織の幹部を追って女捜査官のソニア・ブレイドもやってきた。
3人の前に現れたライデンは、この大会が人間界と魔界との覇権をかけた”モータル・コンバット”で、彼らは選ばれた戦士なのだと語る。

リュウ・カン役はロビン・ショウ、ジョニー・ケイジはリンデン・アシュビー、ソニア・ブレイドでブリジット・ウィルソン、魔界の王の養女にされた謎の女キタナ役でタリサ・ソト、更にシャン・ツンとしてケイリー=ヒロユキ・タガワ、そしてライデン役でクリストファー・ランバートが出演。
B級映画好きにはクリストファー・ランバートとケイリー=ヒロユキ・タガワが顔を揃えているのが嬉しいだろうが、「007/消されたライセンス」のボンドガール、タリサ・ソトが出ていることも見逃せない。
といっても全然雰囲気が違うので、言われなければ気づかないかも。
タリサ・ソトを除けば最初から最後まで出ずっぱりの紅一点ブリジット・ウィルソンは、「ラスト・アクション・ヒーロー」でシュワちゃんの娘を演じていた人。
段々と「コナン」が面白くなってきた。

ゲームで用意された5つのステージの内の一つが19世紀末のロンドンで、コナンたちはこれを選択。
現実世界の殺人事件の犯人は、予め観客には提示されている倒叙形式のお話で、後は劇中人物たちが如何にそこへたどり着くかが肝なのだが、犯人の動機はちょっと無理がありすぎる。
また他にステージを用意せず、最初から19世紀末のロンドンだけで良かったんじゃなかろうか。
今回新一の両親が初登場。
特に父親である工藤優作は、もう一人の主人公とも言える活躍ぶり。
この親にしてこの子あり、だな。

その晩ビル内のスイートルームで大木が殺害され、コナンたち少年探偵団が調査に乗り出すのだが、今度は原の遺体を発見してしまう。どちらも傍に割れたお猪口が遺されており、同一犯による連続殺人だと思われた。
警察は完成披露パーティーの中止を美緒に要請するのだが、逆に彼女はコナンたち全員を招待する。
そしてパーティーの席上、今度は美緒が殺害されてしまう。
黒の組織が劇場版に初登場。
そして組織からの逃亡者である灰原哀にスポットを当てた一篇。
今回新一はほぼ登場せず、よって蘭と新一のラブコメ要素はなし。
代わりにこれまでは賑やかしの域を出なかった少年探偵団の出番が増え、蘭は歩美と光彦から個別に恋愛相談を受ける。
歩美からは、コナンのことが好きだけれど、コナンは蘭のことが好き。だから蘭の口から自分には新一がいるんだと説明して欲しいということ。
光彦からは、歩美が好きだけど、歩美はコナンが好きらしい。その一方で哀のことも気になっている。二人を同時に好きになってはいけないのかと。
ちなみに謎解きが終わった後でコナンたちの絶体絶命が延々と続く、というのは作劇上はどうなんだろう?
「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」以降ご無沙汰だったソーとハルクの近況報告。
そしてまだデビューから日が浅いドクター・ストレンジがソーと初邂逅。

既にソーやロキを手玉に取るとは、短期間でストレンジも急成長を遂げたものだ。
序盤でオーディンもウォーリアス・スリーも退場してしまうし、その後はアスガルドの民も次々と犠牲になり、ソーも片目を喪うという悲惨な、凄絶なシーンが続くのだが、映画全体を貫く明るいトーンは最後まで保たれているという稀有な作品。
ラストシーンも、地球を目前にしたソーたちの前にサノスの宇宙船が立ちふさがるという絶望的な状況なのにも関わらず、だ。
それはやはりソーとロキ、あるいはソーとハルク(バナー)との漫才コンビのやり取りが秀逸で、これに悲惨な過去を持ちながらも逞しく生き残ってるヴァルキリーが加わっての化学反応が愉しいからだろう。

次に登場するのは「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の冒頭だが、その時もハルクの姿だったが、その間に一度も戻れなかったのだろうか。
映画館で見るのはもちろん公開当時以来。
公開初日の朝っぱら劇場へ出かけたものの、開場前に大行列が出来ていたので断念。
その一週間後にリベンジで見た思い出がある。
あの頃は全席指定の入れ替え制なんてものは一般的じゃなく(指定席券は高かったし)、先売りなんてものもなかったので、良い席で見たいとなれば早朝から並ぶっきゃなかったワケで。
その前のアニメブーム勃興期は、前日から徹夜で並ぶのも当たり前なんて時代だったけど、流石にこの頃はもうそこまでのパワーはなかったものの、ちょうどこの作品の頃からスタジオジブリが一般作品として認知されてきてたので、客足は好調だった、というコト。
しかしこのお話って、結局のところアシタカがイケメンだから成り立ってるんだなあ。

サンだって、シシ神さまが生かそうとしたんだからとなんだかんだ理屈をつけたものの、アシタカを好ましく思ったからこそ剥き出しの敵意を封じて救ったのだ。
じゃなきゃいくら弱ってるからといって、口移しで食べ物を与えるような献身的な態度を取るものだろうか。
エボシだって、仲間を助けてもらったからという純粋な感謝の気持ちだけでアシタカを迎え入れたのかどうか。
その当のアシタカにはその自覚は全くない。天性のたらしだから始末に悪い。
故郷を後にする際に妹(兄様と呼んでるものの、どうやら事実上の許嫁のような存在らしい)から託された形見の品を、惜しげもなくサンに渡してしまうなんて、うっかりとかいうレベルではない。
映画のラストでアシタカは別れ際に「自分はタタラ場で暮らす」そして「時々会いに行く」とサンに告げるのだが、これはタタラ場の人たちが自分を快く受け入れてくれるということと、サンが自分を待ってくれていることという二つの条件が成立していることが前提なのだが、どちらか一つもしくは両方が成立しない可能性は考えもしていない。
当時から気になってたけれど、この作品の豪華な出演陣、”声の芝居”としては相当酷いなあ。
おまけにエフェクトかかってる場面も多く、台詞が碌に聞き取れないことも。
やはり餅は餅屋ということで。