
あの『下天は夢か』の著者が挑む「本能寺の変」の真相。ということで期待して読んだのだけれども、新説・奇説が飛び出すでもなく、物語として面白おかしく脚色し、盛り上げようという狙いもない、至極真っ当な結論に落ち着いてしまったのにはガッカリ。
まぁ”真相”は案外こんなものなのだろうけれど、歴史学者ではない作家という立場での考察もあっても良かったかなぁという気がしないでもない。
常識を求める人には良いけれど、意外性や面白さを求める人向きじゃあない。

職場に廻ってきた「おんきょう」のチケット案内で今回の公演を知り、「へぇー、あの作品をミュージカルにしちゃうんだぁー?」と驚いたものですが、実は今回は再演だったのですね。初演は2005年で、以後全国各地で演じられてきたようです。全然知りませんでした・・・。
さてお話は、いきなりピコットばあさんが手紙を受け取るところから始まります。
差出人はリナちゃんのお父さん。そう、このミュージカル版では、ばあさんがリナちゃんを待ち構えているのが最初のシーンなのです。
コックのジョンはジョジョという女性に変えられているし、瀬戸物屋のシッカさんも女性になっているし、お菓子屋のトケさんも猫のジェントルマンも虎のタマも出てこないし、他にも省略されてしまったエピソードがある反面、おうむのバカメが旅立ってしまうエピソードや、張り切り過ぎたリナが大切なストーブを壊してしまうエピソードが付け加えられたり・・・ということで全体的には随分とイメージが違うなぁというのが感想でした。
それに子どもが対象ということだからでしょうが、演出も過剰な感じで最初のうちはなかなか付いていけなかったのですが、途中からは段々と楽しくなってきましたね。
ピエロの傘を擬人化させて、ダンスとマイムだけで感情を表現し、一種の狂言回しの役どころを充てたのもアイディアだと思いました。
脚本・作詞は高橋亜子、音楽・酒井義久、演出・河田園子。
出演は王子菜摘子、井上一馬、斉藤譲、茂木沙月、米谷美穂、勝部祐子、森隆二、今宮多力香、浅川仁志、大塚庸介、藤森裕美、明羽美姫ら。ピコットばあさんは、なんと男性が演じています。
終演後、ロビーや出入り口で出演者たちが扮装のまま、送り出してくれるのもアットホームな感じで好感が持てました。
次回も機会があれば、また鑑賞したいものです。
うす暗い森の中で霧につつまれたリナは、ふと気付くと外国のような不思議な町に辿り着いていました。そこでリナを迎えたのは、いじわるそうなピコットばあさん。ピコットばあさんの屋敷は下宿屋であり、自分の手で生活費を稼ぐように言われます。リナはこの町で働くことになり、様々な不思議な人々と出会うことになっていくのです。

で、ようやくこの本の存在を知ったのは7年ぐらい前のことです。
そう、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』がこの作品を参考にしていると聞いてから――。
実際、宮崎監督はこの作品の映画化を考えていた時期があって、ジブリ美術館にはイメージボードも展示されていました。そこに描かれていたリナちゃんのキャラクター原案は、なんとそのまんま千尋ちゃんに受け継がれています。
ストーリー自体はまるっきり別物なのですが、女の子が異世界で働くようになること、根っからの悪人ではないけれど、いじわるなおばあさんが出てくることなど、雰囲気はかなり似ています。
といってもこの作品を、単に『千と千尋の神隠し』の元ネタという興味だけで読むのは作者に対して失礼な話ではありますね。もっとも原作クラッシャーの宮崎監督のこと、本当にこの作品を映画化しても『千と千尋の神隠し』とあまり変らないテイストの作品になってしまった可能性もありそうですが・・・。
ただ自分の感覚とこの作品の世界観は随分違います。
なので純粋に作品世界の中で遊べたかというと、ちょっと戸惑う部分の方が多かったかも知れません。今回読み直してみたのですが、すいすい読める反面、何でこういう設定なんだろう?と思ってしまった部分も無きにしも非ずでした。
ビデオリリースの順番からするとそうかも知れませんが、実際には3作目ではないかと思われるTVムービー版です。先に見た『三幕の殺人』や『死者のあやまち』と同じスタッフで作られた作品で(こちらが先に作られているようですが)、ジョナサン・セシルが3作共通でヘイスティングスを演じています。

エッジウェア卿の娘をはじめ、卿の死を望んでいた人間は多くいましたが、その誰もがアリバイを持っているという中で、ポワロの”灰色の脳細胞”が導き出した真犯人とは・・・?
原作はアガサ・クリスティーの『エッジウェア卿の死』。
フェイ・ダナウェイがジェーンとカーロッタの二役を演じ、堂々たる存在感を見せています。ダイアン・キートンやビル・ナイ、アマンダ・ペイズらが脇を固めていますが、面白いのはジャップ警部をデビット・スーシェが演じていることでしょうか。スーシェはその後、イギリス製作のTVシリーズでずっとポワロを演じ続けているからで、新旧二人のポワロの共演ということになります。
犯人の正体に関してはあまり意外ではありませんでしたが、その動機についてはちょっとわかりづらいですね。その辺りは原作を読むと得心が行くのでしょうか。

『ボウケンジャー』最終回の後日談になっているので、当初ボウケンジャーにはレッドとピンクがいない。あろうことか、理央とメレと手を組むという意表をつく展開も見せてくれるので、ゲキレンジャーVSボウケンジャーだけではなく、ボウケンジャーVSボウケンジャー?!という新機軸も。
お話もわかりやすく、ヒーロー側のキャラクターも勢揃いしてるので単純に楽しめるし、「カレー屋繋がり」でまたまた作品間のリンクが貼られているのはお約束?
それにしても福井未菜、中村知世、末永遥、平田裕香、山崎真実という名前がクレジットに並ぶと、なんだかグラビアアイドル祭りみたいだねぇ。

そしてビックリ!
そもそも「裁判員制度」自体が、明確な憲法違反だったのですねー。
如何にも「簡単です。誰でも出来ます」式の論調、宣伝が繰り広げられているようですが、それはトンデモナイ間違い。相当の法律知識がない限り、素人に太刀打ち出来る問題じゃなさそうです。
しかもどういうわけか、「裁判員制度」が導入されるのは重罪の刑事訴訟です。窃盗だとか痴漢だとか、そういったレベルではありません。場合によっては死刑を宣告することだってありえます。うーん、なんか裁判員になった人がそのことでトラウマ抱えそうですな。しかも殺人事件だと、現場のエグイ写真を証拠として見せられるわけですから、気の弱い人なら心を病んでしまうかも知れません。わー、ヤダヤダ。
面白いことに(?)この「裁判員制度」、控訴審には適用されないそうで。
つまり素人さんが下した第一審判決が控訴されたら、後の判断はプロだけが行うってことは・・・素人さんは何のためにいるの?
ちなみに自分は法学部出身ではありますが、とりあえず卒業した(出来た)というレベルなので、ムズカシイ話はチンプンカンプンです。
一生守秘義務を抱えるのも御免被りたいので、クジから外れることを祈るのみです・・・。
――ということでセットで売ってます(ウソウソ、単品発売です)。
しかしレコード会社としては両方買って欲しいところでしょう。『ストレス』を聴いてから『ストレス・バスターズ』を聴くも良し、こちらの『ストレス・バスターズ』を聴いてから『ストレス』を聴くも良し。というか、そのままだと永久ループにはまりそうですが。

以下、フォーレ「ピエ・イエス~レクイエムより」、バッハ「G線上のアリア」、マスカーニ「≪カヴァレリア・ルスティカーナ≫間奏曲」、サティ「ジムノペディ 第1番」、モーツァルト「クラリネット協奏曲:第2楽章より」、マーラー「アダ-ジェット」、ドビュッシー「月の光」、オッフェンバック「ジャクリーヌの涙」、グリーグ「ソルヴェイグの歌」、そしてファオーレの「アニュス・デイ~レクイエムより」の全11曲。
ヴァイオリンの奥村愛以外にもピアノの三浦友理枝、チェロの遠藤真理などの演奏も収められています。
しかし『ストレス』に比べると、なんだか物足りない内容ですなぁ。やっぱり刺激がなくっちゃダメってことかな。
「<第一種接近遭遇>とは、UFOの目撃を言う」
「<第二種接近遭遇>とは、UFOの残した物理的痕跡を言う」
こんな感じの広川太一郎の予告ナレーションも懐かしい。
そして<第三種接近遭遇(この映画の原題)>こそ、この映画のクライマックス、「UFO搭乗者との接触」なのだ。
宣伝のポイントもこの点に絞られていたと思う。『未知との遭遇』という邦題も何やらワクワクさせてくれるものがあり、TVで良くやるUFO特番の延長を見るような気持で劇場へ足を運んだ。
開巻すぐ真っ暗な画面にタイトルが現れ、スタッフ、キャストのクレジットが流れてゆく。
こちらとしては「いつUFOが姿を現すんだろう」という期待から画面を注視していると、微かに聞えてきた音楽がやがて段々と大きくなっていき・・・一転してスクリーンに映し出されたのは砂漠の風景。そこで発見されたのは古めかしい飛行機の数々。
これは一体何なんだ?UFOとどういう関係があるのか?と思う間もなく、場面は旅客機の管制センターでの、謎の飛行物体を巡っての管制官とパイロットの緊迫したやりとりへと切り替わる。そしてあれよあれよと思っているうちにやっとこさ主人公が姿を見せ、何が何だかわからないながらも、すでに映画の中へすっかり引きずりこまれてしまい、後はひたすら映像と音楽に圧倒されただけ――。
「UFO入門」だとか「UFOの謎」だのといった本を読んでいた子供心にも、劇中で描かれるUFOが引き起こす現象はリアルに感じられ、高名な研究家がバックについているんだという宣伝文句にも納得したものである。
そして、出し惜しみせずに最後に宇宙人の姿をバッチリと見せてくれるのも嬉しかった。しかもこれまた妙に説得力のあるデザイン。これらは内外の様々なデータに基づいたリサーチの結果なのだろうが、細かいディテールの積み重ねが映画全体の大ウソをウソと感じさせないものにしているのだ。
そして音楽の力。未知の存在とのコンタクトに音楽、しかもシンプルな五音階を使うという発想はどこから生まれたのだろうか。これまた映画ならではの大ウソと言ってしまえばそれまでだが、映画だからこそこの発想を愛したいものだ。
最近しばらくぶりにビデオで見返してみたのだが、ほとんど色褪せていないのには驚いた。もしかするとスピルバーグの最高傑作は、この作品なのかも知れない。

<特別編>が作られて以降、基本的には封印されていたこの<オリジナル公開版>も、公開30周年を記念してDVD化されたこともあり、また観たくなってきたもので。
同じ年に作られたこの『未知との遭遇』と『スター・ウォーズ』は、『2001年宇宙の旅』から生まれた双子のような作品とする評が公開当時にはあったのだが、人類を見守る大いなる存在を描くなど、『2001年』からより多くを受け継いでいるのはこちらの方。だからといって同工異曲な作品ということではなく、どちらかというと人類を突き放して捉えているキューブリックの視点に比べると、この作品でのスピルバーグの眼差しは暖かい。
スピルバーグの監督作品をすべて観ているわけではなく、せいぜい70%といったところだが、その中で一番面白いのはこの作品。以前も感じたように、スピルバーグの最高傑作はこの作品なのかも知れないと改めて感じた次第である。

前作では序盤にしか出て来ない計画の責任者だったフロイド博士が今度は主人公になり、前作で残された謎の解明を試みるという一篇で、続編と言うよりも、解決篇、解答篇といったところ。だがそれは、あくまで前作の製作主体だったスタンリー・キューブリック抜きの、もう一人の生みの親アーサー・C・クラークによる模範解答という色合いが強いので、前作にはもっと別の解釈も成り立つだろう。
前作ではクラークとキューブリックによってまとめられたストーリーが、それぞれキューブリック版(映画)、クラーク版(小説)という形で発表されているが、今回はクラークが単独で小説(『2010年宇宙の旅』)を執筆、その後でそれを”原作”として映画化したという経緯からも明白だ。
前作ではウィリアム・シルベスターという俳優が演じていたフロイド博士を、今回はロイ・シャイダーが演じている。勿論、前作の製作からかなりの時間を経ていることもあるだろうが、やはり大作の顔として相応しい格のある役者を選んだということだろう。また、地味だった前作の出演陣に比べると、本作には他にジョン・リスゴウ、ヘレン・ミレン、ボブ・バラバンら渋い個性派が顔を揃えている。そんな中、前作からはボーマン船長役でキア・デュリアが、HAL9000の声としてダグラス・レインがそれぞれ同じ役で出演しているのが嬉しい。
前作に比べればアップテンポで、米ソ対立によるサスペンスなども盛り込まれ、娯楽性は高まっている。それに何よりHAL9000が異常をきたした理由が明らかにされるとあって、単純に観ている分には前作よりも楽しめる。以前、映画館で『2001年』と『2010年』の二本立てを観たことがあったが、そのお陰もあってかあまり苦にならなかった思い出がある。
ただ何分前作あっての本作ということで独立性が乏しく、またコンピューターの進歩やソ連の崩壊など、現実が物語を追い越してしまっている部分も多いので、今なお未来性を保っている前作に比べると、早くも古臭さを感じさせてしまっているのは残念。
クラークの小説版には『2061年宇宙の旅』、『3001年終局への旅』といった更なる続編があるが、そちらの映像化企画は動いていないようだ(確か『2061年』は以前、日本でラジオドラマ化されているはず)。
偉大な前作に対して軽視される傾向のある本作だが、実は『機動戦士Zガンダム』などこの作品の影響を受けた作品は多い。もっと再評価して欲しいものである。
それにしても先月にはロイ・シャイダーの訃報が届き、今またクラークまでもが鬼籍に。図らずも二人の追悼になってしまったのが、観ていて辛かった。



こんな経験、ちょっと記憶にないですね。
